2015年9月24日木曜日

1170 本屋で探検44〜「さよなら妖精」(米澤穂信:著)

「不定期に本屋さんに行き、知らない作家の本を少なくとも1冊は買う」というルールに則って紹介する第44回目。
今回は、米澤穂信・著「さよなら妖精」です。

文庫の初版は2006年。2015年7月で19刷となるロングセラーです。
この本を、2015年の今、主人公たちの年齢(高校3年〜大学1年)とはだいぶ離れた時に読めたということは幸いだったと思います。(理由については後述します。)

物語は、1992年7月6日、ふたりの若者、守屋路行と白河いずるが1年前の出来事を振り返り、あるひとりの外国人の娘の消息を探る作業をするところから始まります。彼女の名はマーヤ、当時17歳。

語り手は、1992年の春に大学生になったばかりの守屋。彼の視点で語られるのは1991年4月23日から1991年7月6日までの、マーヤと過ごした2ヶ月の出来事。彼の日記から口述されるそれらを旧友の白河がノートに記述する形で、再現フィルムを回すかのように物語が始まります。

舞台は人口10万人余りの地方都市・藤柴市。
1991年4月23日の雨のなか、傘を持たずに潰れた写真館の軒下で雨宿りをしていたマーヤと守屋、そして同級の太刀洗万智が出会います。
英語が全く通じないと思ったらユーゴスラビアから来たと流ちょうな日本語で話すマーヤ。2ヶ月間ホームステイをする先の人が亡くなっており、行く当てが無く途方に暮れているところでした。
そこを太刀洗の機転で旅館業を営む同級の白河に話を付け、宿の手伝いをすることで格安に泊めてもらうことになります。
その2ヶ月間、マーヤは手帳を片手に不思議に思ったことを次々と守屋たちに質問します。

なぜ、雨なのに持っている傘をささずに歩いている人がいるのか?
なぜ、的を射る精度に関係なく弓道の指導の先生は怒ったり褒めたりしたのか?
なぜ、めでたい紅白の餅が墓に供されていたのか?

・・・などなど。なかにはちょっとしたミステリー(墓に紅白の餅)もありますが、我々日本人が改めて聞かれたら、日常すぎて答えに詰まってしまうようなものばかり。
マーヤはそれらに「哲学的な意味はありますか?」と重ねて問います。マーヤの言う哲学的というのは、どういう意味が込められていたのか。彼女の母国の複雑な構成と関係があるようにも感じますし、単に「深い意味はありますか?」「特別な意味はありますか?」というニュアンスだったのかもしれません。作者が「哲学的」という言葉を持ってきた意図がいまひとつ解読できませんでした。

物語の時代背景となった1991年のユーゴスラビアは6つの共和国からなる連邦でした。ここのところは語り手の守屋が調べて表にして(文庫212ページ)概要も文章でまとめてあるのでわかりやすいと思います。
マーヤが藤柴市に滞在している間にスロヴェニアとクロアチアが独立宣言をし、ユーゴの連邦軍がスロヴェニアに侵攻、マーヤが帰国した後にクロアチアにも介入しました。1992年3月から戦火はボスニア・ヘルツェゴビナへ飛び火し、物語の「現時点」である1992年7月現在も紛争は収まる様子がありません。

そんな「現状」で、守屋と白河のふたりはマーヤがどこに帰ったのかを探るわけですが、そもそもマーヤは自分がユーゴスラビア人でユーゴスラビアから来たとしか言わなかったこと、守屋たちもなんとなくたずねる機会を逸して本日に至る状況であったし、たずねたとしても「ユーゴから来た」としか言わなかっただろうと推測します。

しかし、マーヤは滞在の途中から敢えてどこから来たか言わないようにしていたことがわかります。それは、自国の紛争がすぐ終わるものではないと判断していたこと、守屋たちの誰かが帰国を止めるかもしれないということ、もしくは一緒に行きたい、あるいは後日危険を顧みず訪ねてくるかもしれないということを危惧し、それらを防ぐ目的もあったようです。

実際、ユーゴスラビアについて調べていた守屋は、マーヤが将来政治家になって6つの共和国で7つめの新しい文化を作り、全共和国がひとつになった新しい国を作るのだという使命に感化されていったのでしょうか、あるいは全くそのような記述はありませんが、マーヤに恋しての言動でしょうか、「何かしなければ」という衝動に駆られていきます。

そして、マーヤが藤柴を去る前日に催された送別会で守屋は「一緒に行きたい」と告げますが、自分ははっきりとした目的があり各国を回っていたというマーヤはほほえみながら「なにをするために行くのですか?」と問いかけることにより拒絶します。
案の定「なにかを・・・」としか答えられない守屋に「観光に命を賭けるのはよくありません。もっと静かになったら来てください」と返すマーヤ。

1991年のユーゴスラビアで起こったこと、その後、6つの共和国は独立して今はユーゴスラビアという名前が地図上にはない2015年においても、この小説を読んだ後も遠い異国のこととしか、そういう歴史があったのか、くらいの認識しかありません。

作者は作中で、ユーゴで起きたことは民族独立のためと言われているが実際はマーヤの言った「殺されたお父さんのことは忘れても、奪われたお金のことは忘れません」という経済的・金銭的不満だったのではないかというようなことを主人公に言わせています。本当はどうだったのか。調べたらわかるのかもしれませんが、それこそ、やや冷淡なキャラクターである太刀洗に「そんなこと、今更調べてどうなるの?」と言われるような気がします。

それはさておき、人種も宗教も言語も文化も違う人々が混在するという複雑さに加え、共和国間の貧富の差。自分たちの富が別のところに注がれることに不満を持った共和国の独立宣言に端を発した紛争。
第二次大戦後、どっぷり平和につかっている日本人には遠い異国の想像もつかぬ話です。そこに主人公らと同世代の子が国の未来を考えて行動している。自分もなにかしなきゃと熱にうかされるように守屋が感化されるのは必然の流れでしょうか?それともいまだに中二病なのでしょうか・・・?

ユーゴスラヴィアに行きたい。マーヤが藤柴に来たように、おれもユーゴスラヴィアに行きたい。
そのおれの告白を、マーヤは笑った。観光をするには時期が悪い、と。
あのとき、おれが悔しさを感じたのは、おれの懸命な望みを観光の一言で片付けられてしまったからだ。そんなものではない、とおれは思っていた。自分は、もっと意味のあることをしに行きたいのだ、と。
(中略)
去年のおれがしようとしていたこと、マーヤにユーゴスラヴィアに連れていってもらおうとしたこと、それはマーヤの行った通り、観光でしかなかった。いや、それ以下の、全く無意味な行動だった。なにかをどうにかしたい。そんな気持ちでユーゴスラヴィアに行ったところで、なにかがどうにかなるとおれは本気で考えていたのだろうか?
(中略)あのときのおれは、マーヤが引き連れてきた世界の魅力に幻惑されていた。やっと現れた「劇的(ドラマティック)」にすがりたかっただけだった。それを自分のためと明言することによって、おためごかしだけはせずに済んでいたが、救いといえばそれぐらいだ。(338〜339ページ)

守屋は一年後の1992年にそう反省するのですが、それでもまだ「なにかをどうにかしたい」以外の理由でユーゴスラヴィアに行こうとしていました。

それはちょっと置いておいて、マーヤが日本において最後に触れた謎解きについて触れたいと思います。それは白河の名前「いする」の由来と意味でした。ちなみにいずるさんは女性です。

「いずる」がなぜひらがななのか?名前や漢字そのものに意味があると教えられたマーヤは興味津々、謎解きに挑んだ守屋から「父方、母方からそれぞれもらった字が相反する意味だったので、読みをそのままひらがなにした」と回答を聞き、「名前の一部を受け継ぐことで新しい名前ができるのはおもしろい。願いが込められるのも素晴らしい」と感想をもらします。
相反するものがぶつからずに共存しているということに、マーヤは故郷に対する未来の希望を重ねたのじゃないかというのは行間を読みすぎでしょうか。

物語の最終章はふたたび1992年7月6日に戻ります。白河と打ち合わせをした後、守屋は太刀洗から「会いたい」と電話で呼び出されます。マーヤと出会った潰れた写真館の前で落ち合った守屋ですが、実は太刀洗は物語の冒頭で「マーヤのことは早く忘れたい」と守屋たちの打ち合わせに参加することを拒絶していました。
その理由と、1991年当時の太刀洗のそっけなさすぎな態度の意味がそこで明かされます。

その理由が明かされるまで、守屋はまだユーゴスラヴィアに行くのだと決意表明していました。ただし、今度はマーヤを戦地から救い出すのが目的だと告げます。
太刀洗によって明らかになった事実を前に、果たして守屋はどうするのでしょうか?その疑問を残して物語りは幕を下ろします。

もし、私が彼らと同じ高校生でこの小説を読んでいたら、意味も無く「そうだ、当たり前の幸せや平和にどっぷりと浸かっているのじゃなく、何かしなきゃ」と守屋と同じ衝動に駆られたかもしれません。
しかし、その後に守屋が気づいたように「何かしなきゃ」は何も具体的なビジョンを持ってはいません。とりあえず行ってみればなんとかなるという生半可な考えでは動いたとしても何も成果は得られないことは明白です。

作中で語られるユーゴスラヴィア情勢以外はフィクションでしょう。マーヤという強い意志と将来へのビジョンを持った(そして日本語が流ちょうな)人物も架空の人物でしょう。ですが、「今の立場で自分にできることことは何か?」と読者には物語を通してそう考えることは可能です。守屋たちの場合であれば、戦地となる場所に戻っていく者を見送る以外、部外者である彼らには何もできないという結論に至るのはほぼ間違いなさそうですが。
では、もし逆の立場だったら?
個人的には文庫初版の2006年ではなく2015年の今、この小説を読めたことは時宜を得たものだったと思いました。

ちなみに、2015年7月に刊行された作者の新作「王とサーカス」の主人公は「さよなら妖精」から10年後、2001年の太刀洗となっています。マーヤの件を引きずっているのかどうか、その心理も書かれているかもしれないと思わず期待してしまいます。続けて読んでみたい1冊です。

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