今回は、加藤千恵:著「あかねさす 新古今恋物語」です。
学生時代、古文の授業で習う短歌で疑問だったことがひとつありました。
加えて、作者に聞いたかのように心情が書いてあると「なんで?なんで?」と先生に質問したくなったのでした。結局しなかったので、どうしてそういう解釈になるのか未だに謎のままですが。
それはさておき、「あかねさす 新古今恋物語」は新古今和歌集から選んだ22の短歌に、その短歌の意味するところをさらに作者のフィルターを通して現代に置き換えた短編小説が続き、最後に作者のオリジナル短歌が添えてある、というおもしろい構成になっています。
もちろん元の短歌には現代語訳が付いていますのでご安心を。
確か作者は歌人だったなぁとおぼろげな記憶を引っ張り出すと、「ついてない びっくりするほどついてない ほんとにあるの?あたしにあした」という短歌を思い出しました。確か高校生でデビューしたんじゃなかろうか?
この短歌の醸し出すユーモアすら感じるネガティブさに、思わず小さく笑ってしまった覚えがあります。
その短歌のイメージに引っ張られているせいなのかは定かではありませんが、全22編を通して感じたのは、倦怠感というか、だるさの残る寝起き直後のよう、というものでした。
他に例えて言うならば、高校や大学のときに進路がなかなか見えなくて、考えもつかなくて、そんな自分を持て余して「あーもー、めんどうくさい!」とベッドに仰向けにバタリと倒れ込み、天井を見つめながら「どうしようかなぁ・・・」とつぶやいている、そんなイメージが浮かびました。
でも、その倦怠感は嫌な感じはなく、「あー、それ、あるよね」と共感できるものでした。特に女子ならそれを強く感じるのではないでしょうか。
特筆すべき点は、31文字に集約するための観察眼が鋭いと思われる作者が紡ぐ情景描写の細やかさ、言葉の選び方、運び方です。
わたしの反論は、友達の燃やす火の前では、新聞紙のようなものだった。あっというまに飲み込まれ、火は勢いを増す。(P12、第1話)
お寿司食べたかったな、と思うわたしの目の前で、また梅の花が一つ落ちた。音も立てずに。(P23、第2話)
スーパー、どうしよう。どうしてわたしはこんなに不安になってるんだろう。ぼんやり寂しい。ぼわっと寂しいよ。(P49〜、第5話)(注:話者はスーパーに買い物に行こうとして外出した。)
私、宇野のこと、好きだったんだなあ。でも宇野は、全然そんな感じじゃないんだなあ。(P91、第10話)
あたしは泣きそうになる。こらえたわけじゃないけど、涙は出ない。ただ泣きそうな感覚が続く。あたしたちのいないテニスコート。早く立ち去りたい気持ちも、ずっと見ていたい気持ちも、同じくらい存在している。(P160〜、第18話)
これから毎日パクチーを食べたっていいんだなと思うと、愉快だった。実際にはしないだろう。でもすることだってできる。(中略)まだ何も決まっていない。なんて悲しくて、なんてすごいことなんだろう(P193、第22話)
歌を詠んでいるようなリズム感がありますね。
また、作者は北海道旭川市出身とのことで、冬、雪、寒さの描写もリアルさがありました。
降り続ける雪を眺めていた。正確には、雪に含まれる思い出ばかりを眺めていた。すっかり冷えた素足のままで。(P58 ~、第6話)
暖房もついていない部屋は、外よりはマシとはいえ、かなり冷え切ってしまっているのを。ストッキングとブーツに包まれているはずのわたしのつま先が、まったくあたたかくないどころか、むしろひどく冷たいのを。知っている。知ってしまった。もう、知ってしまったのだ。(P74 ~、第8話)
寒い、寒い、と怒るように言って、両手をこすり合わせながら千尋ちゃんは現れた。(P61、第7話)
読んでいて、数ヶ月前までそこにあった冬の寒さを思い出して身震いしてしまいました。
短編小説の文章も流れるようですが、作者オリジナルの短歌もまた小気味よくリズムを刻んでいます。
仕方なく半袖を着る 願っても桜は散ったし夏になるから(第3話)
何がってはっきり言えるわけじゃない 何かが不足しているとしか(第5話)
死んでもいいなんて真っ赤な嘘だった 君と一緒に生きていきたい(第16話)
ぜひ本書にて新古今和歌集の短歌、短編小説とそれを元に詠んだ短歌を読んでみてください。
おそらく当方のように「ああ、こんな形で昔の短歌に触れていたら、古文の成績は上がっていただろうなぁ」と思うにちがいありません。たぶん。
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