2013年1月27日日曜日

0385 「余命3年を宣告されたとしたら?」で考えることの是非


シゴタノさんのエントリを読んで、「余命3年だとしたら?」「余命3年を宣告されたとしたら?」と考えて「やりたいこと」あるいは「やらないこと」を考えることについて、最近、ちょっと考え方が変わったので書き出してみました。
で、さっそく結論なんですが、

「本当に切羽詰らないとムリ!」

いやもう、医者にマジで余命宣告されるか、ほのめかされるか(←もの書き写真堂はこれ)しないと、本気出して考えませんでした。
いや、想像力である程度まではできます。できますが、何かこう、1本足りないような…。
そんなことが、昨年の「とりあえず5年」で考えた経験と、今回の年末年始、新年早々の検査三昧で分かったことでした。

昨年暮れに少々疑わしい結果が出たよと言われて、まず浮かんだのが「5年生存率」。どれだけ生き残れるのか。実際にあとどれくらいの期間が残されているのか。
残されているとしても病気と闘いながら、あるいは入退院を繰り返したり、そのまま病院にずっといることも考えられます。大手術をして動くのが大変だったりもするかもしれません。抗がん剤投与で様々な副作用が出て、思考も回らない、体も思うように動いてくれないということもあるでしょう。

こんな状況が想定されるし、実際に昨年の入院で病院での現実を見てきているため、「余命3年を宣告されたら?」という設問も、今現在健康な人と、まさに余命3年で闘っている人では答えは違うと言えます。
健康な人は「余命3年」分を健康な状態で過ごせて、やりたいことがすべてできると考えるでしょう。実際、もの書き写真堂もそうでした。去年の暮れまでは。

結論として、「余命3年」「とりあえず5年」と考える場合、これでもか!ってくらい真剣に考えてみて、とまずアドバイスしたいです。
そのときには健康な時のように動き回ったり、考えたりできないかもしれないということも考慮したほうがいいと思います。
まあ、先のシゴタノさんのエントリでは、そこまでリアルに考える必要はなく、「究極の選択を迫られたら、ホントにやりたいことがあぶり出されるだろう」という効果を狙ったものだと思われますが。
以前に紹介した「とりあえず5年の生き方」という本もそんなスタンスだし、シゴタノさんのエントリもそのような本が元ネタになっての提案ですね。



でも、ちょうどまだ1月(注:執筆時点です)といういい機会ですので、余命3年、あるいは「とりあえず5年」を考えてみるのもいいかと思います。
先のエントリのアルバムの件とか、遺言状を書いてみようとか、身辺整理してみようとか(これ、部屋が片付きます!)、具体的に考えて動くのはメリットあります。
決して「縁起でもない」ということはありませんっ。前にも書いたけど、死んでからでは遅いのですから。

(追記)
また、ホントに「余命○年」の人の前では、デリカシーの問題として「余命3年と宣告されたら?と仮定して、これからの人生考えてみたんだ」とは言わないようにしたいなと入院していて思いました。
現在はあまり「余命○年です」って医者は患者に告げないようですね。ここのところはケースバイケース、医者、病院のスタンスにもよるらしいですが、同じ病気や治療でも人によって出る結果が違うから、昔のように「余命○年です」とは断定しないみたいですね。

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